2015年03月28日
活き活きするキッカケづくりがライフワーク 人と人とをつなぐイベンター
相原真樹
神奈川県逗子市出身 釧路市在住
同メーカーに約4年間勤務し、退職。
その後は、釧路で飲食店店長、市民活動支援団体、企業支援団体など幅広く勤務。
現在、生活困窮者支援の社団法人事務局長に加え、シンクタンク客員研究員を務める。
また、正業の他に「裸心プロジェクト」「釧路青年おもろい会」など市民団体を立ち上げる。
昨年釧路市内に建てた大好きな海の見える家で、奥様と2歳になるお子さんとのんびり暮らしている。
釧路市内の繁華街である末広町が活気づく、金曜の夜。
「BAR of 946 HUMMAR」に様々な人が続々と入っていく。店の扉には、「金曜の会」と書かれた張り紙。
ドアを開けて薄暗い階段を登れば、グラス片手に、話に花を咲かせる人たち。
バーカウンターの手前からは明るく大きな笑い声が聞こえ、「裸心プロジェクト」代表である相原さんが「お疲れさまー!」とカラッとした笑顔で出迎えてくれた。
心を裸にして交流しよう
「みんなが活き活きするキッカケづくり」をコンセプトとして活動している「裸心プロジェクト」。
そのコンセプトを実現するために、「異世代交流」「異業種交流」をテーマとした交流会などを開催しているという。
そんな「裸心プロジェクト」の詳細について訊ねてみた。
ー 裸心プロジェクトは、具体的にはどんな活動をしているんですか?
毎月第1、第3金曜の午後8時から「金曜の会」という飲み会を開催してるよ。
他にも、季節ごとにイベントを主催してて、春に開催する、知り合いの少ない転勤族のための「集まれ転勤族」から始まって、夏はキャンプ、テニス合宿、ママチャリ12時間耐久レース、秋は運動会、冬はクリスマスパーティー、サホロ幕別ツアーとかがあるね。
ー 楽しそうですねー!「裸心プロジェクト」はいつから始まったんですか?
2005年の4月からだよ。
その頃、友達を集めてホームパーティをしてたんだけど、たまたま飲食店の経営者と友達になって、「俺の店でイベントやってみなよー」って誘われたのがきっかけだね。
ー 「裸心プロジェクト」の名前の由来は何ですか?
新聞記者の友達に取材してもらうことになったんだけど、いざ記事のタイトル聞いたら『市民有志、交流会始める!』みたいな固い感じでさ。
「えー、市民有志ってちょっとかっこわるくないですか?笑」って言ったら、「じゃあ、3分で団体名決めて!」って急かされたから、
「うーん…じゃあ心を裸にして交流しよう!裸心プロジェクトだ!」って。
そんな感じで名前が決まりました笑。
ー 「10年続く団体の名前が3分で決まったとは驚きですね笑
「裸心プロジェクト」を行う上で、大変だったことはありますか?
人集めだね。当時は、毎回参加者に電話しまくってたけど、そのうち電話に出てくれない友達とかも出てきて、だんだん苦しくなってきたんだよね。
そんな頃、世の中にブログが出始めて、「これめっちゃいいじゃん!」って思ってブログ立ち上げてから、人が集まるようになったの。
特に、転勤族の人たちは釧路に来て最初にするのはネット検索だからね。
あとは…それこそ最初が最大のピンチだったよ。
ー 最初が最大のピンチ?どんなことがあったんですか?
当初は、俺も「人をいっぱい集めてやる!」とか「でっかいイベントをやってやる!」みたいな想いが強くて、
1年目にハロウィンパーティーをやったんだよね。クラブ貸しきって、150人くらい集めて。
だけど、人がたくさん集まったのに、全然満足しなくてね。
ー 満足できなかった理由は何かあったんですか?
そのパーティーでは、知らない人同士全く交流してないし、ただ仲間内でわちゃわちゃ喋ってるだけ。
途中でやったファッションショーでは盛り上がったんだけど、参加者はステージを見てるだけ。
そこに新たな出会いや交流は何も生まれていない。ただ、来て、見て、終わるみたいな。
友達からも「結局、相原は何やりたいの?」って言われて、その時俺も答えられなくて。
そこで散々悩んだ結果、「みんなが活き活きするきキッカケづくり」のためにやってるんだって気づいんだよね。
今でこそ、説得力あるかのように話してるけど、やり始めたときは全然分かってなかったね。
ー 「みんなが活き活きするキッカケづくり」というコンセプトは、活動の中で定まっていったんですね
そうだね。最初は、ほとんど俺1人でやってたんだけど、友達が「大変だからスタッフとか作ったら?俺も手伝うよって」言ってくれて。
半年くらい経ってからか、スタッフも集まってきて、1年目のクリスマスパーティーは1人じゃなくて、スタッフがみんな手伝ってくれたね。
キッカケひとつで変わった大学生活
試行錯誤を繰り返しながら、人との出会いや交流の大切さに気づいていった相原さん。
また、「裸心プロジェクト」に繋がる体験は、相原さんの大学生活の中にもあったという。
ー どんな大学生だったんですか?
大学1、2年は腐った生活をしてたんだけど笑、大学3年の時から、NPO法人「ETIC.」※が主催する学生と社会人を繋げるような交流会に参加するようになって、他大学と交流が出始めてきたんだよね。さらに、そこで知り合った大学生同士で「きらめき」っていう学生団体立ちあげて笑。
※「ETIC.」…次世代を担う起業家型リーダーの輩出を通じて社会のイノベーションに貢献することを目的としたNPO法人。
「ETIC.」は「Enterpreneurial Training for Innovative Communities」の略。
ー きっ、「きらめき」!?
ちょっと恥ずかしいんだけど…笑。
なぜ「きらめき」かっていうと、人と出会うきっかけがあれば充実した大学生活を送れるんだけど、周りはそのきっかけがなくて悶々としてて。
だから、そういう大学生にきっかけを与えて、きらめかせようと笑。
全国の大学生を集めて、みんなで夢を見つけようっていう「夢フェスタ2002」ってイベントを開催したら、全国から大学生150人くらい集まったね。
今思えば、大学生の時から、活き活きするキッカケを作りたいって思って動いてたし、それが楽しかったね。
マンション・ナンパ大作戦
人脈を広げたり仲間を作ったりと活動的に動き、充実していた大学生活。
しかし、大学卒業後、就職した大手化粧品メーカーでの最初の勤務地は、誰も知り合いのいない「釧路」だった…。
ー 最初に「釧路」って聞かされた時はどう思いました?
いや、もう頭真っ白笑。釧路のイメージ、ゼロだったもん。
釧路行ったことある友達から「あそこなんもないよ」って言われて、「え、マジ?なんもないの!?」って真に受けちゃって。
ケータイの電波届くかなとか、コンビニあるかなとか。空港からバスで駅前まで来る間ももう心配で笑。
けど、行ってみたらちゃんと全部あるんで安心したのを覚えてるよ。
ー 釧路に来てからの生活はどうでしたか?
最初は嫌で嫌でしょうがなくて。1人ぽつんと釧路に着いたときはホント落ち込んだね。
初めての1人暮らし、初めての社会人で仕事でもやることなすことうまくいかないし。
大学の時は、周りに楽しくて熱い仲間がいたから自分も熱くなれたけど、俺個人は大した人間じゃないんだ、仲間のおかげだったんだなーって。
ー そこから、どうやって立ち直ったんですか?
最初のきっかけは宅配便のおじさんで、地元逗子の母さんから荷物届いたときに、「7階にも横浜から来たやついるぞ」って教えてくれたんだよね。
しばらくして、7階から降りてきたエレベーターに若い兄ちゃんが乗ってたから、思い切って話しかけてみたらそいつでさ。
そいつも転勤族で、せっかく仲良くなれたんだけど、俺以上に落ち込んでて結局仕事辞めて帰っちゃったんだよね。
そんな姿見たら、俺もこのままじゃダメだ、自ら周りを熱くするぐらいの人間じゃないとダメだ!って思って、変わったんだよね。
ー その後、どんなことをしたんですか?
そこから、単独友達作りが始まって。
転勤族が多いマンションだったから、エレベーターで一緒になった時にガンガン話しかけて。
みんな男性だったけど、もはやナンパです笑。
あと、テニスもやりたかったんだけど相手がいないから、とりあえずテニスの格好して、ラケット持って、テニスコート行って、自分と同じレベルのところ探して、「仲間に入れてください」ってお願いしたりしてた笑。
ー ずいぶんアクティブですね!笑
今も大事にしている価値観なんだけど、目の前の現実を変えるには、「あいつをこう変えればいい」とか、「世の中がこう変わればいいのに」って言っても何も変わらなくて、まず自分がどういうアクションをすればいいのか、ずっとこの発想なんだよね。
よく、相手を変えるよりも自分が変わったほうが早いって言葉があるけど、まあそういう意味なのかなーって。
釧路に残ることを決めた日
最初は見知らぬ土地だった釧路でも、自分なりの方法でどんどん仲間を増やしていった。
そんな最中、勤務先から札幌への異動の辞令が出てしまう。その時、相原さんは、会社を辞めて釧路に残ることを決めた。
ー 釧路に残ろうと思ったのはなぜですか?
釧路から離れたくない気持ちが強くてね。釧路でこういう輪ができたから、ここに留まろうって。
いや、転勤先でも自分の居場所は場は作れると思うんだけど、行く先々でまたゼロから。
輪ができたなと思ったらまた転勤。それを考えると、俺の人生、土地は固定したほうがいいなって。
あとは、やりたがりな俺にとっては、都会はなんでもありすぎて、みんなやってるからつまんないんだけど、地方都市はやってる人が少なくて、
自分から仕掛けていくことができるからね。
ー 道外から来て、釧路で生活するにあたって大変だったことはありましたか?
外から来た人がよそ者みたいに扱われる話はよくあるけど、俺自身はこれまで何の違和感も感じたことないね。
逆に「釧路の人は温かいよねー」とかよく聞くけど、そういう感覚もないんだよね。
別に、東京の人も関西の人もどこの地域の人も温かいもん。
優しい人もいればそうでない人もいるのはどこの地域も変わらなくて、自分自身が相手の良さを引き出せるかどうかだと思うよ。
釧路を盛り上げる原動力
2014年11月、「裸心プロジェクト」10周年を祝うイベントが開催された。
発足以来、人と人との交流する場を作り続けて10年間、これまでの参加者数は延べ8000人。
なんと札幌支部も立ち上がった。最後に、これまでの感想と今後の展望について訊ねてみた
ー 10年間継続するってすごいですね
当初、新聞記者の友達に言われていたのが、「頼むから継続してくれ」と。
「市民団体って昔から色々立ち上がりはするけど、まあ二年も持たない。消えてっちゃうんだよね」って。
だけど、言われた時はその意味がよく分からなくて…
でも、今はその意味、つまり継続する大変さが分かるようになったよ。
ー 「裸心プロジェクト」を続ける中で、嬉しかったことは何ですか?
「裸心がきっかけで楽しくなりました」「友達ができました」って言われることだね。
例えば、転勤族の人達は、かつての自分と同じく、釧路での生活がつまんなくて毎年転勤願いを出してる人ばっかり。
だけど、裸心に参加するようになって、実際に次の転勤の辞令が出る頃には「もう転勤したくない」って泣いちゃう奴もいたりね。
あとは、裸心の出会いがきっかけでできた市民団体もあったりね。
そういうみんなの心の変化が目的であり、一番の喜びだよね。
ー 「裸心プロジェクト」の今後の展望について教えてください
今ある釧路、札幌はとにかく継続。
だけど、次の20周年に向けてという捉え方をしたら、ただ今やっていることをそのままやり続けるのではなく、
定期的に目的に合った最適の手段を見直したいなっていう気持ちでいる。
あと、釧路・札幌だけじゃなくて、道内各地の主要都市に裸心ができて、どこに転勤になっても楽しめるっていうのが夢だね。
釧路という見知らぬ土地に来て、自分の非力さや会社での挫折を味わったところからの大きな発想の転換。
相原さんの思考は「環境は自分で動いて変えるもの」がベースになり、人が聞いたらちょっと恥ずかしいようなことも楽しんでしまうユーモアと明るさを持ち合わせている。
嫌々やって来た青年が、15年後の今では釧路に永住を決めたほどこの街も人も好きになってしまったのだから驚きだ。
その突き抜けた行動力が魅力で相原さんの周りには、自然と人が集まってくる。
これからも彼がつくる場をきっかけにその人たち同士も繋がっていくのだろう。
23時、相原さんの元気な司会で初参加の人たちが自己紹介を行った後、金曜の会はお開きとなる。
BAR of 946 HUMMARから続々と人が出ていく。
新しい繋がりができて、今まで知らなかった話が聞けて、意外な共通点を見つけて、活き活きした表情を浮かべる人逹がいる。
話し足りない人は二次会へ。金曜の夜はまだまだ長い。
相原さんと出会うには?
まずはメールにてご連絡ください。「裸心プロジェクト」のイベントにご参加いただくのもおススメです!
メール:rasinproject@gmail.com
ブログ 釧路・札幌 異世代・異業種交流会「裸心プロジェクト」:http://blog.livedoor.jp/rasin/
facebookページ:https://www.facebook.com/rasin.kushiro
はじめまして。岐阜出身のなぐです。転勤により、2014年4月に釧路にやってきました。
最初、異動先が釧路と聞かされた時は膝から崩れ落ちそうになりましたが、住めば都とは言ったもので、今では釧路のおいしいところをつまみ食いしながら楽しく暮らしています。
趣味はマラソンと自転車で、冬場でも薄いダウン1枚で走り抜けます。
そして釧路のみんなには「寒くないの…?」と引かれる本州人です。
今後も、「釧路って実はいいとこなのかも!」と思ってもらえるような、耳よりな話をお届けできたらなあと思います。
なぐの編集後記
金曜の会、参加してみました!
和気あいあいとした雰囲気のなか、いろんな人たちと話すことができて、なんだか風通しが良くなったような気分になります。
ソーシャルネットワークのつながりもある今日この頃ですが、やっぱり面と向かってお話できる場所があるのは、とてもありがたいことですね。
友達できたら街の景色も変わるかも!?ぜひ、金曜の会に足を運んでみてくださいね。